ただ早熟だっただけの凡才 〜中1.中2編〜
中学校に入学。
入学式では当時まだ完成していないあべのハルカスを背景にクラス写真を撮る。
大荒れの公立小学校から突然国立中学校にきてしまったせいで入学早々に浮く。
とにかく衝撃だったのが、授業中に周りが静かという環境がもうありえなかった。
シャーペンで文字を書く音が聞こえてくるなんて小学校時代にはありえなかったし、そもそも自分が席に座って授業を受けているのも気持ち悪かった。
部活はサッカー部に入部。
小学校までクラブチームでやってたのもあり、周りより上手いということで天狗に。
典型的なパス出さない守備しないのイキリ選手で早々にコーチから目をつけられ嫌われる。
試合中に「おまえの王様プレーなんか見たくないねん」と怒鳴られる始末。
けど先輩は気に入ってくれて、仲良くしてくれたし自分のことを認めてくれた。
入部して早々にサボり部員になる。
毎週火曜日の外周をサボって、同じサボりの友達と環状線ループしてゲームしたり、天王寺のキューズのゲーセン行ったりしてた。
3年生が引退して新チームになると少しは練習も行くようになる。
ちなみにプレースタイルと尖った性格のせいで同期からは死ぬほど嫌われてた。
けど先輩と仲良かったし自分は一年生で試合に出てたから、へたくそ同期は一生荷物持ちしとけとか思ってた。
これがここから3年間で性格丸くなります。
学校生活はクラスメイトに2人組の女の子の友達ができる。
この2人が6年間で死ぬほどお世話になる友達になる。
こんなに尖っていてガキだった自分とは対照的に、とても大人びていて、自分みたいなやつにも優しく接してくれた。
友達も少なめだった自分なんかに、自分のいいところを言語化して伝えてくれるのが嬉しかった。
ここから高3まで何か起きたら全部この2人に相談するくらい信頼をおいていた。
勉強に関しては全然やらなくなる。
地元の友達と繋がりがほしかったため、高校受験で当時は馬渕と二強だった類塾に行かせてほしいと親に言う。
中高一貫なのに高校受験の塾に行く意味はまったくもってない。
だから親は渋っていたし、入塾テスト前の車中でゲームをしていたら「そんなんしてて受かるわけない」的な嫌味を言われた。
でも無理やり受験で地元の友達と引き裂かれたからそれくらい行かせろ的なことを言った。
ちなみに数国両方満点で受験した当日に即合格の電話が来たらしく特待生で授業料も免除になる。
入塾テスト後すぐにあそびにいってたため、帰宅したら気まずい顔で親からその報告をされてザマァ見ろと思った。
その月に受けた塾内模試も全校舎5000人中5位の5教科偏差値72で無双、当然ダントツ校舎1位で完全に天狗状態になり勉強は全くもってしなくなる。
秋ごろにケータイを買ってもらう。
いわゆるガラケーというやつだ。
ここで友達とメールをするようになる。
これがマジで青春だった。
LINEの短文のやり取りとはちがって、手紙みたいな長文やりとりで、これがとにかく楽しかった。
他クラスに明るくてかわいいけどトラブルメイカーって感じの女の子がいて、その子と仲良くなって一生メールでやり取りをしていた。
活字に対する力はまちがいなくこのときのメールで身についた。
中1の途中あたりでピアノを辞める。
部活が忙しい(親に黙ってサボって梅田とか天王寺ぶらぶらしてるだけ)という理由だ。
中2にあがる。
ここは中高のコミュニティにおいて、その後自分が仲良くしていく友達たちとたくさん出会ったクラスだった。
さっき言っていた2人組はどっちも同じクラスに。
そのなかでもYくんは数少ないJR京都線仲間で、趣味も合ういちばんの親友になる子で、その子と出会ったのもこのクラス。
小4からボカロを1人でコソコソ聴いていて、当時はオタクに厳しい時代なのもあって隠していた。
とはいえ、ボカロは黄金期を迎えていて、さらにはカゲプロの大流行も相まって大盛り上がり。
しかもこのクラスにはそれを分かち合える友達がたくさんいて、その中の1人にYくんもいた。
ボカロだけでなくポケモン、スマブラ、デュエマ等、全ての趣味が合い、帰る路線も一緒。
部活のあと一緒に帰って電車でゲームしたり、休みの日にカラオケ行ったらデュエマしたり、ほんとにずっと一緒にいた。
あと中1のときにメールで仲良くなった子も同じクラスになり、さらに仲良くなった。
テイラーをすすめられて、これもどハマり。
洋楽をこの時期だけ聴くようになっていた。
とにかく中2の1年間は友達に恵まれ楽しくて仕方がなかった。
あとバレンタインのときに好きな女の子に筆箱を取られて、放課後にその筆箱の下にチョコを隠して渡されるとかいう激甘展開があった。
眩しすぎる青春。
サッカー部は本格的に練習をサボるようになる。
先輩も上手い人たちは大概サボってたし試合は出してもらえるからいいやって感じだった。
けど秋の最後の大会はまじめにがんばった。
先輩たちが引退するからだ。
特に印象に残っている試合が二つある。
最後の大会の地区予選、勝たないと敗退という試合で1-1の状況で試合は拮抗していた。
普段はサボりでおちゃらけで、Bチームが試合してるときに忍者飯を忍ばせてベンチで忍者とか言ってお菓子食べるような面白いけど、サッカーに対してはすごく真面目で上手い先輩がいた。
チームで自分は左ウイングをやっていたのだが、そ試合中の拮抗した状況でボランチのその先輩が左サイドまできて、「チャンスは一回しかないからそれを決めにいこう」と自分に言いにきた。
守備の苦しい時間が続いたなか、その先輩が中盤でボールを奪いカウンターのチャンスがくる。
右ウイングの先輩がサイドをぶち破り、山なりの高いクロスがあがる。
クロスがきたと思った次の瞬間に自分はもうすでにジャンプの体勢に入っていて、ヘディングをした感触がすぐにした。
感触と同時に目を瞑っていて、目を開いた瞬間ボールはゴールに突き刺さっていた。
正直このときの記憶はほんとにこんな感じで、あとで動画で見返すとディフェンスの背後を取りステップを調整して先に落下地点に入りしっかりヘディングしているのだが、この一連の流れをほぼ無意識にやっていたみたいだ。
ゴールに突き刺さった瞬間は何が起こったか理解が追いつかなかったが、大歓声が聞こえた。
それと同時に先輩たちが自分のもとに飛んできて気づいたら抱き合っていた。
サッカー人生で一番うれしったゴールだった。
この一点を守りきり試合終了。
見事に予選突破をきめた。
家に帰ってケータイをひらくと
「ナイスゴールでした。」
と先輩から送られてきていた。
その短い文章が本当に嬉しかった。
先輩とまだサッカーができる。
そしてもう1試合、忘れられない試合があった。
地区大会トーナメント決勝戦。
勝てば府大会へ、負ければ先輩が引退の大一番。
過密日程で1日に準決勝と決勝を戦うこととなるのだが、準決勝は苦しみながらも勝利。
数時間空けて決勝戦が始まる。
しかし前半開始早々、中盤の要である先輩がケガで負傷交代。かなりの痛手。
相手はかなりラフプレーが多いチームで試合も荒れ始める。
そこから立て続けに先輩が2人、相手のラフプレーで負傷交代。
過密日程も原因で自分も疲労が蓄積していて、コートを去る先輩たちを見て立ち尽くすことしかできなかった。
そして後半、相手のラフプレーで弾き飛ばされるもノーファールでボールを奪われる。
倒れた状態で顔をあげボールの行方を追ったその瞬間に失点した。
そこからの記憶はほぼない。
視界が白くもやがかかっていたような感じだった。
あぁ先輩と最後なんだと心のどこかで思いながらたたかった。
そして試合終了のホイッスル。
荷物をベンチから撤収し、人生で初めて試合に負けて泣いた。
納得できない汚いサッカーに負けたのも悔しかったし、何より先輩と最後になるのが悲しかった。
ちなみに大阪の南地域が嫌いなのはこれがきっかけである。
相手チームが南のチームで、これ以外の試合でも同じようなラフプレーや暴言が何度もあったのもあったのが原因である。
いつもおちゃらけの先輩が声をかけてくれた。
「ここまで一緒にできてよかった」
と言ってもらい、もっとやりたかったという気持ちで溢れた。
こうして先輩たちとのサッカーは高校までここで終了ということになり新チーム体制へ。
最後の大会で2年生は自分ともう1人だけ試合に出ていたのだが、その子が部長、自分は副部長になりチームを引っ張っていく存在となる。
さすがに練習をサボる回数も新チームになってからは減ることになる。
ちなみに塾はというと、秋ごろにSSSという北野高校特化型の最上位クラスが南千里校舎に新設され、直前の模試で全校舎の数千人中10位で偏差値5教科72と好成績をおさめたのもあり引き抜かれ、豊津から南千里へと移籍することになる。これが後に大きな転機となる。
SSSクラスには選抜された20人中2位で入るのだが、もうこの時点で勉強をしなくなっていたので緩やかに成績は下降し、中2の終わり頃には模試も冊子にギリギリ名前が掲載されるくらいの偏差値62〜65程度で、SSSでも最下位付近まで落ちぶれていった状態で中3をむかえる。
そしてこの中3になる春休みに大きな出会いがあるのだが、そこからは次のブログで。
ただ早熟だっただけの凡才 〜小学校高学年編〜
小4はかなり苦しい1年になる。
とにかくデブ最盛期。デブゆえの弊害がここで全て出る。
まずはおきまりのいじめ。クラスで一軍女子にいじめられる。毎日学校に行くのが辛くなった。
それでも仲良くしてくれる優しいグループがあったためなんとか耐える。
次に運動能力の低下。
足がとにかく遅くなり瞬発力も低下。
運動会は最下位で転ぶという大醜態を晒す。
そして最後に、サッカーはついにキャプテンを降ろされスタメンも外される。毎週末に試合や大会をするようになるが、親が見にきてるのに試合に出れず、帰りの車内でぐちぐち怒られるという始末。
そしてここで塾にぶち込まれることになる。
親からは「塾というのは監獄のように厳しくて、家で勉強するよりしんどい場所」と吹き込まれていて、勉強したくないと抵抗し続けた結果罰として塾に入れるというかたちで入塾した。
中学受験をするコースとしないコースがあるのだが、しないコースに入ることになる。
ちなみにそのコースは自分しかいなかった。
そしてここで、家でやらされていた問題集が難しすぎたせいで、この時点で小6までにやらないといけない内容がほぼ終わっていたことが塾にいくことで発覚する。
そのおかげで優秀な生徒として塾でものすごくかわいがってもらい、初めて勉強で褒められるようになり居心地がよくなる。
小5や小6の授業に飛び級みたいなかたちで入れてもらったり、勉強が楽しくなる。
そんな感じで、サッカーも学校も居場所を失ったものの、塾で新しい居場所ができたのが小4だった。
ここでピアノも始める。自分からやりたいと言って始めた。
絶対音感のおかげで上達が異様に早かった。
小5にあがると生活が一変する。
唐突に痩せた。そしてクラスも大当たりを引き、いじめはおろかクラスの中心人物になり、とても楽しい小学校生活が始まる。
担任は安定に情緒不安定おばさんを引き当てたが、担任を共通敵としてクラスの団結力が芽生える。
そして大きく変わったのは痩せたことによって運動能力が大幅に上昇した。
地域の体育祭で親が100メートル走にでたのだが、ダントツの最下位だったのがなぜか悲しかった。
それと同時に小5ながらに、自分が運動神経悪い遺伝子をおわらせなければならないと思う。
先見据えすぎな。
今となっては家系そのもの終わらせてしまいそうですけど。笑
そこから、どうやったら足が速くなるかをすごく研究した。当時は前傾姿勢で手はグーにして走るのがいいみたいな風潮があったが、「逃走中」に出てくるハンターはみんな姿勢を立てて手をパーにして走ってることに気づき、その走り方を真似たくらいから速くなりだし、あとは痩せたのもあってどんどん速くなった。
そして50m走は9.4秒から7.3秒で2秒縮まり、おかげでサッカーもそこそこ試合に出れるようになり始める。
またこの小5の2010年はワールドカップで本田圭佑が無回転フリーキックを決めて活躍したり、イナズマイレブンの登場でまだ当時は野球人気だったのだが、サッカーブームがくるようになり、公園でみんなでサッカーをする機会が大幅に増える。
自分がよくサッカーをしていた公園ともうひとつ同じ校区にサッカーが盛んな公園があり、その二つが二大勢力みたいになって、公園対抗の試合をするようになる。
これがマジで熱かった。
闘志むき出しでやり、最後はだいたい暴言に殴り合いの大喧嘩になることも多々あったが、なんとこの後、同期のひとりがサッカー部を立ち上げたいと先生に直訴し、小6に上がるタイミングでサッカー部が小学校に発足した。
そのときケンカしてたみんながチームメイトになった!熱い!
サッカー部が立ち上がるとかほんとにイナズマイレブンのような展開。
塾ではここで自然と中学受験コースに入れられる。
そして全国模試を受けてついに自分の実力が分かるのだが、最初の模試からいきなり4科目偏差値70で、受験コースの子たちはおろか全国3万人中3位に躍り出る。
小4までは家でも塾でも算数と国語しか習っていなかったが、なんか教養みたいな感じで理科と社会もできた。
しかしここからはいかにも自分なのだが、完全に天狗になってしまい勉強を全くしなくなる。
受験コースにいれられたものの、中学受験をする意味もあんまよくわからず、まぁしないだろうなぁくらいの気持ちでいた。
あと年が明けて2011年の3月に震災が発生する。その日はたまたま学級閉鎖で早く帰宅していた。
親がリビングから叫び散らかしていたので何かと思って階段下りてテレビを見ると想像を絶する光景が目に飛び込んできて、本当に何が起きてるのか理解が追いつかなかったのをよく覚えている。
そして小6になる。
とにかくこの一年は濃かったし、本当に楽しかった一年だった。
このときには小学校の友達と一緒に地元の公立中にいきたいと思うようになり、それを親に伝えると、強い語気で却下される。
中学受験をしたいなんて一言も言ってないし、勝手に敷かれたレールに乗せられていたが、自分の意思ではっきりとそれを否定したのに、もうそのときには手遅れであった。
うちの家系からは想像できないような学校に入れる成績だったがそれを誇りにしているというか、自分という人間じゃなく、優秀な自分にしか興味がないんだろうなと当時感じた。
あぁこの家で自分の意思が実現されることはないんだと感じたし、結果を出し続けることを強要されているようにも感じていた。
それにうんざりして、本当に勉強も宿題さえもしなくなりみるみる成績は落ちていった。
学校に関してはもう楽しすぎるのひとことだった。
当時塾の先生に読書を勧められて「ぼくらの七日間戦争」に触れることになるのだが、これに大きく影響を受ける。
理不尽や傲慢さを押し付ける大人たちに対して、中学生たちが抵抗するという筋の本なのだが、当時の自分にはものすごく刺さった。
「解放区」という安保闘争のときに学生が立てこもった真似事を中学生がするというのがメインのストーリーで、その解放区に憧れて、自分もやりたいと厨二病のようなことを思い実現することになる。
当時学校は大荒れの学年崩壊していたため、それを利用して体育館裏を解放区みたいにして、授業に出ずにみんなでそこに集まって遊ぶ生活が始まる。
小2〜小5までずっと外れの担任を引いてたこともあって、その鬱憤を晴らすかのように無茶苦茶なことをいっぱいした。
厳しかった親も学校で何をしてようが言わなくなってきて、今まで縛られていた解放感から授業もろくに出ず、好きなときに好きなことをする生活をした。
でも小6では自分のことを理解してくれる大人とも出会えた。担任と保健室の先生だった。
2人とも自分の話をきいてくれて、この2人の言うことなら聞こうと思えた。
サッカーはいよいよ最終学年になるのだが、先にも言ったように学校のサッカー部が始動する。
初代キャプテンになり、チームを引っ張った。周りはみんな初心者で始めたのに、どんどん上手くなっていくのが嬉しかった。
最初は試合をしてもボコボコにされてたのに、最後は試合も面白いように勝てて、自分もチームの司令塔として得点にアシストに活躍していて、とにかく楽しかった。
初彼女ができる。
小4から好きだったが相手にされず、それでも小6でキャプテンとか学級代表なったりで自分の地位があがったのもあってか、突然向こうから告白された。
あぁ報われたなぁって思った。
小5のときに手紙を渡していたらしく、それを大事に名札の裏に入れてくれたと聞いたときはびっくりした。
ちなみにサッカー部にはその子の弟がキーパーをやっていたのだが、恐ろしく背が低くて可愛らしい感じの子ですごく懐いていて、試合中はその子のために攻撃的MFなのに、ゴールじゃなくてその弟を守るために守備をしていた笑
彼女は試合を見にきてくれて、自分が頑張っていることを見てくれるのが嬉しかった。
クラブチームの方のサッカーは、小6の秋まで安定してスタメンにはなれず、かなり辛い時間を過ごした。
それでもこのときには50mが7.1でチーム1速くなり、認めてもらうために必死に練習からアピールして努力した。
その結果ついに秋にその努力が実り、試しに起用されたセンターフォワードで活躍し、そこからスタメンとして花開くことになる。
ベンチで監督が他のチームメイトに指示していたのをずっと聞いていたおかげで、フォワードとして求められていることは理解していた。
30チームが出る大きな大会でMVPをとり大きなメダルをもらったとき、本当に長かったベンチでの時間と、親からの嫌味を言われ続けたサッカー生活が報われたと思った。
その後も得点王でトロフィーをもらったりと大活躍で得点を量産する。
そしてなんとレッドカードまでもらう(おい)
この先のサッカー生活でもレッドカードはこの一枚だった。笑
16年のサッカー生活で、イエローカードは0枚、レッドカードはこのときの1枚だった。
このレッドカードをもらって退場したあと、罰として会場の大学の周りを10周走らされるのだが、このときにいろいろ先のことを考えていた。
そのとき不意に、中学になったら自分は身長がとまるんじゃないかと思う。特に根拠はないのに突然頭に浮かんだ。まぁそれが大当たりになるのだが。
当時160センチほどあった身長だが、ここから本当に全く伸びなかったのだから、人間の勘ってすごい。
そんな感じでサッカー生活は最後の一年で遅咲きのストライカーとして大きく報われた。
運動に関しては本当に努力が報われて、運動会ではリレーでごぼう抜き。
小4のときにいじめてきていた一軍女子と同じチームだったのだが運動会のあとに
「あのときめっちゃ嫌いだったけど今日は本当にかっこよかった」
と言ってもらえた。
小6でまた同じクラスになったときは嫌だなと思ったが、仲良くなり、リレーでそんなことまで言ってもらえて、これも報われたなぁと思った。
あとは10校ほど集まって行われる水泳大会があり、それも最後の学校対抗リレーでアンカーとして2人抜いての2位で、あぁ溺れてるところから無理やりやらされた水泳もやっててよかったなぁとなる。
そして中学受験なのだが、サッカー中心の生活で勉強はおろそかの極み。
塾も自習と言って嘘をつき、友達たちと溜まり場の公園で遊び散らかしていた。
わざと落ちて公立にいこうとしていたのだが、親はそれを見透かして「落ちたら引っ越すから」と言われ、地元には行けないことが確定する。
ちなみなこの頃溜まり場にしていた公園でロケット花火をしていたのだが、そのときにコンビニでライターを買ったらたまたまその店員が親の知り合いでチクられてバレた。
親の顔の広さ怖すぎ。
突然カバンを見せろと言われてロケット花火がバレて、親は怒るのかと思いきや笑っていたから拍子抜けした。
多分今思えば、タバコを疑われたんだと思う。そしたら大量のロケット花火が出てきたから安心したんだと思う。笑
とはいえ受験に対しては圧がすごく、学校では何してもいいから塾では勉強しろという感じだった。
70あった偏差値も60〜65くらいに落ちていて、たまに70近くに返り咲いたりして、五ッ木模試も冊子に名前掲載されるくらいの位置に入ったりはしたが、第一志望の洛南は厳しいかなという感じ。
秋ごろに受験したくないともう一度言うのだが、当時リーマンショックの影響で家計がだいぶ厳しい中で塾に行かせたのに無駄になると、突然リアルなお金の話をされ、かなりショックを受けて、受験するしかないと決意。
けどサッカーは受験でも辞めずに最後まで続けていたため、受験会場から直行で大会に出るとかが起こった。笑
監督が前日に「決勝で待ってる」と言ってて、またまたーと笑っていたが、受験から会場に向かうと本当に決勝の直前でそのまま優勝した笑
結局洛南には落ちたが、第二志望の大教大天王寺に合格。
この学校に通うのかーという気持ちはなく、みんなと離れ離れにならないといけないの嫌だなぁという気持ちと、PSP買ってもらえる嬉しいーという気持ちだった。
そういえば受験直前期にポケモンホワイトをやっていたのがバレて死ぬほど親にキレられた。
そんなこんなで、小6は受験があったものの、それまでの蓄積のおかげで勉強はしないでよかったのもあり、とにかくやりたいことをやりきって楽しかった一年だった。
そして2012年春から天王寺へと舞台が変わり、ここでもまた大きな出会いや経験を積み重ねていく。
ここからはまた次のブログへ。
ただ早熟だっただけの凡才〜小学校低学年編〜
さて小学校に入学。
地元の公立小学校に入学したのだが、サッカーチームのおかげで年上の友達がいっぱいいて、放課後もよく遊んでもらった。
この頃にはサッカーにのめりこみ、毎日公園でボールを蹴るサッカー少年になっていた。
好きなことはサッカー、ポケモン、そしてもう一つ、デュエル・マスターズとの出会いである。
サッカーチームの友達がやってたのを見て自分も親に交渉して買ってもらうことに。
おじいちゃんと散歩に行ってコンビニでパックを買ってもらうのが毎週末の楽しみであった。
この頃になると親の教育熱心がさらに加速し、難しすぎる問題集を毎日やらされてすでに勉強が大嫌いになっていた。
学校生活は勉強も運動もよくできる優等生な小学校1年生だった。
同じクラスにもう1人賢い女の子がいて、その子と両思い?みたいな感じになる。
休み時間にベランダに連れていかれて、扉のところに見張りを立たせて2人で話すみたいなことをよくしていた。
何を話していたのか覚えてないけど、お互い親が厳しくて、小1にしてはかなり大人びていたのもあって気が合ったのだと思う。
まさかのちに中高同じになるとは。
あと水泳参観でプールで沈んでいたのを見た親がまずいと思い、ここで水泳を習わされる。
ちなガチで楽しくなかった。
小2は学級崩壊する。
ここで優等生ムーブが壊れる。
家では相変わらず厳しく縛り付けられてたが、その分学校で暴れ散らかすようになる。
そしてここで怠惰にも目覚める。
毎日提出しないといけない漢字ノートがあったのだがこれをサボり始め、気づいたら1ヶ月放置していて親に電話が行き、家で両親からしばき回された。
もうこの頃には家での勉強が進みすぎていて学校は退屈だし、勉強できる生徒を虐げる小学校特有の出る杭打つ教育にうんざりしてグレてしまった。
学級崩壊の原因も、言ってることブレブレで自分の感情もコントロールできないような担任で、そのせいでみんな反抗するようになり、定期的にガラスが割れたりとか典型的な崩壊だったが、これはもう担任が悪い。
三者面談では親の顔色伺うような話し方するのも気持ち悪くてとにかく嫌いだった。
この翌年に担任団から理科だけ担当に左遷されていて、まぁさすがにそりゃそうなるよなと子供心に大人の事情を感じ取っていた。
ここから小5までこんな感じの担任を引き当て続けたせいで、「オトナ」という生き物が嫌いになる。
また誕生日におじいちゃんにポケットモンスター・ダイヤモンドを買ってもらい、毎週末ひたすらポケモンにいそしむ。
このときはまだ家にゲームを置かせてもらえず、おじいちゃん家にいけばそこでゲームができるというルールだった。
おかげで毎週末おじいちゃん家では一日中ゲームに明け暮れた。
ピアノベースにつくられているダイパのBGMがとにかく好きで、夜になるとポケモンセンターのBGMが落ち着いたピアノの曲になるのが好きだった。
のちに神曲として崇められるシロナ戦のBGMも当時ものすごいハマり、それを聞くためだけに四天王を周回していた。
小3にあがると担任はまた微妙なハズレを引くのだが、まだマシだった。あんま印象にないからそこまで酷くなかったのかもしれない。
ここではサッカーに暗雲がたちこめはじめる。
順調にデブになっていっていたのと、チームに新しい同級生がはいってきたのだが、明らかに自分よりセンスがあった。
同期最古参でずっとキャプテンをしていたが、徐々にその立ち位置も危うくなり始める。
なんとかFWとしての地位は確立していて、うまい子が増えて強くなったこともあり、初めて大会で優勝し、自身もチーム最多得点、金メダルをもらったのがとにかく嬉しかった。
こんな感じで小学校の低学年は、今の基礎ともなる感性とか価値観がある程度確立した3年間だったが、ここからものすごく濃い小学校生活がはじまっていく。
ただ早熟だっただけの凡才 〜幼少期編〜
よく自分の話をしてしまうくらいに、自分の人生ってバカで愚かでコンテンツとしておもしろいなと思うのですが、今回せっかくなので何回かに分けて振り返ってみようかと(暇だし)
というわけで今回は幼少期(3〜5歳)
そもそもなんでこんな幼いときが書けるかというと、記憶力が自分はかなりいいっていうのと、おそらくこれからこのシリーズの軸にもなる(予定)早熟で物心つくのも早かったってのもある。 あとは親から聞いた話も参考にしながら。
ほんとにこれから何を綴っていくか1行先も決まってない程度なので、気楽に読んでもらえばと。
というわけでスタート。
まずはこれから人生の軸にもなるサッカーを始めるのが3歳。
当時は野球が好きだったけど、近くにこの年で入れる野球チームがなくて、とりあえずスポーツということでサッカーチームに入れたらしい。
まさかここから16年も続けていくとは。
入ったときの記憶はうっすらあって、上級生のキーパーがパントキックしたボールが自分の頭の上を飛び交っててそれをぼんやり眺めてた。
同時期にもうひとつ覚えてる記憶がピアノ親がよくエリーゼのためにをひいててそれを後ろで見てた。
あるとき自分が興味を持ってピアノを触ろうとしたら、親が「ドレミ」の音階を書いたシールを鍵盤に貼りだして、それを見てなんでわざわざそんなことするんだろと思ってた。
そのときからドレミの概念は知ってて、同時に音も音階で聞こえてて、それが当たり前と思ってたから、その行為が不思議でしょうがなかった。
そこから4歳になって幼稚園に入園する。4月生まれってのと、もともと生まれたときからデカかったのもあって、今では考えられない巨大幼稚園児として入園。
この頃には物心もしっかりしてて、記憶もしっかりある。
はないちもんめとかけっこが好きだった。
一番印象に残ってる記憶がひとつある。
うちの幼稚園はバス送迎があって、幼稚園についてから始業時刻まで少し自由時間がある。
その自由時間にみんな園庭や教室で遊ぶのだが、その幼稚園で大人気だったのが「赤色のスクーター」であった。みんなこれを園庭で乗り回すのが好きで、自分も好きだった。
しかしさっきも言ったバス送迎なのだが、ルートがいくつかあって、自分のバス送迎ルートが幼稚園に到着する時間は、他のバスルートよりも少し遅めだった。
そのせいで、自分が到着する頃には人気の「赤いスクーター」はみんなにとられててなかったのである。
それでもどうしても乗りたかった自分は頭を使う。そして最終的に思いついた手段が略奪であった(最低)
方法も今思えば悪質だった。
まずスクーターに乗っている気の弱そうな子に話しかける。そしてその子が止まる。何かを話しかけて、手を離した瞬間に奪ってそのまま逃走。
ほんとに年少でやる手口とは思えないくらいひどいけど、これが一番覚えてる幼稚園最古の記憶(笑)
そのあとチクられて見事に先生に大激怒されて、園庭で大泣きした。たぶん幼稚園初泣き。
そんなこんなで5歳に。
ここでポケモンに出会う。衝撃的な出会い。
6つ上のいとこがやってたルビーサファイアをやらしてもらう。
何もかもが新鮮で衝撃的だった。
それと同時にアニポケも見始める。サトシの手持ちポケモンたちがみんな好きで、とくにキモリがかっこよくて好きだった。(当時はアドバンスジェネレーション期)
そして6歳。
ここでサッカーでは幼稚園クラスの最年長になり、キャプテンにもなる。身体は縦にも横にもすくすく成長して、立派な動けるデブに。
親曰く、ドリブルは脂肪で敵を薙ぎ倒して直進していたらしい(笑)
あとはムシキングに大ハマり。マンディブラリスフタマタクワガタというスーパーレアカードを手に入れたときの嬉しさは今でもはっきり覚えてる。
アニポケはバトルフロンティア編という、アニポケの歴史のなかでも屈指の神シリーズに突入し、その中でもサトシがフリーザー戦のためにリザードンを呼び戻して戦い勝つシーンは、胸が踊りまくった。
そして映画はルカリオが上映され、これもまたポケモン映画屈指の名作で、クライマックスのルカリオが死んでしまうシーンで、不意に涙が溢れて、人生で初めての感涙を味わう。
それくらいあの映画は圧倒的だった。
そしてこの辺で親がこの子頭いいかもと思い始める(地獄の始まり)
おじいちゃん家によく遊びにいってたのだが、その行きの車の中で九九をやらされたり、家では自作の計算プリントをやらされたりした。
あとはよく旅行につれていかれて、高速道路の道中は車でずっと暇を持て余していて外を眺めていたときに、標識に書いている文字をずっと目で追いかけてたら、気づかないうちに漢字がいっぱい読めるようになってたりした。
まぁそんなこんなであっという間に卒園式をむかえるのだが、卒園式の日に自分のことを好いてくれていた女の子が腕にがっちりくっついていて、親の前ですごく恥ずかしい思いをした。
ここまでが幼少期の思い出。
記憶もまちまちで時系列とか怪しいかもだけど、印象的なエピソードをかいつまんで紹介した。
ここから小学校に入学していくわけなのだが、それは次のブログで。
街灯
今日気づいたことは忘れないうちに形として残しておこうと思う。
自分には青春コンプレックスがない。
それはきっと高校時代を謳歌したから。
本当に少女漫画みたいで全てを手にしてた高校生活だったと思う。
当時も、きっとこれが人生の最高点だ、青春だとふと思うくらいには充実していた。
そこから急転直下して今があるわけだけど、今の自分はあのときの光を完全に失って、でもそれも開き直って楽しんでいる。
泥酔して冬の道路で寝たり、メンヘラに沼ったり、バイトで鬱になったり、留年したり。
あのキラキラ高校生だった自分はどこにいったって感じ。
けどそんなクソみたいな今の生活も、社会人になって振り返れば輝いて見えるのかもしれない。
留年したとはいえ大学生活は後半を迎えている。
深夜の関裏はきっと大学生活そのものなんだなとよく感じる。
それは社会人になってからも不変なものだけど、いまこの大学生活を過ごす中で見るこの景色は今しか見れない。
だから静かに照らす街灯も、凍えるような寒さも、ハイライトの味も、みんなと話したことも、2ケツで駆け抜けた思い出も、ぜんぶぜんぶ脳裏に焼き付けておきたい。
先輩や高校同期は大学生活はあっという間だったって言うけどその気持ちはわからない。
この1年を振り返っても毎日が濃くて、1年前がほんとに遠い過去に感じるくらい時間がゆっくり流れている。
むしろ自分は時間がゆっくり流れているように感じる。
あと2年、まだあと2年も、この時間軸で過ごせるんだね。
わたしのうつ
鬱で動けなくなる。
心臓を誰かに握りつぶされてる感覚。
うずくまって必死に耐える。
今年に入って毎晩こんな感じ。
特に理由もなく鬱になることもある。
懐かしい感覚。
二浪して半年引きこもったあのとき以来。
死んだことにしたかったから連絡絶った。
だからLINEを消した。
けど思い出が残ったインスタ消せなかった。
ストーリーは足跡つけなかった。
死んだことにしたかったから。
TLだけ眺めてた。
みんな幸せな大学生活送ってた。
みじめに感じてスマホを閉じた。
黒い画面に惨めな自分がうつった。
スマホを置いた。
白い天井を眺めた。
気づいたら1日が終わってる。
ずっとこんな独りの日々。
寝て起きてうずくまって、たまに死のうとして怖くて死ななくて
こんなこと繰り返してたら季節が二つも変わってた。
久しぶりに出た家の外
太陽が眩しすぎてたちくらんだ。
それでもなんとか踏み出して
もう一度勉強をやり直してまた失敗して病んで
それでもなんとか大学生になった。
ここまでなんとか辿りついた。
じゃあ今はどうか。
たくさんの人に囲まれてる。
慕ってくれる人もいる。
なのにどうして鬱になる。
あのときは独りでもなんとか生き延びた。
スマホを開いたらいつでも連絡してくれる友達がたくさんいる。
バイトは鬱で働けなくなった自分をもう何ヶ月も待ってくれてる。
独りで生きるのは辛いけど、人といると自分は弱くなる。
鬱なのか甘えなのか、わからない。
でもこれを世間が甘えと言って許さないなら
もう生きることをやめたい。
一度絶望を知った自分は
人の弱さに寄り添える人間だと思ってた。
でもちがった、依存されることに依存して弱さをごまかしてただけだった。
依存されて捨てられての繰り返しの大学生活
依存されることすらなくなって
どれほどそれに依存してたのかがわかった。
もう少し強くなってほしい自分に。
1人でも生きてほしい。
そして人間へ。
初めて自分を肯定してあげれた一年だった。
二浪で崩壊した自己肯定感、ずっと自分を否定して生きてきた。
あのときはほんとに死のうとした。
けど直前で怖くてこんなにも憎い自分を殺すことすらできない自分に失望してまた自分を否定して、どうして生きてるかすらわからないときもあった。
あの名残で包丁見るとあの衝動がよぎるから、怖くてキッチンに近づけなかったのも今年になってようやく治った。
まうでゅの存在、ほんとに大きかった。
途中から入ってきた音楽ド素人完全無知の自分が、こんなにもたくさんの人たちに囲まれるようになるなんて思ってなかった。
本当に自己肯定感が低いから、自分なんかと仲良くしてくれる人は全員好き、これは今も昔も変わらない。
だからその人の周りからの評価は気にしないし、自分が仲良くしたいと思ったら誰とでも仲良くする、これは自分の良いところ。
とにかく人が好き、自分のこのスタンスはここからきている。
けどそれを受け取ってもらえないことだってある。
だからそんなコミュニティは全部切った、江坂マックも、BEGINも。
けどまうでゅはそれをちゃんと受け取ってくれてた、それが嬉しかった。
まうでゅってサークルが、そこにいるひとりひとりが好きって気持ちが伝わっていて、だから自分ものびのびと楽しめた。
否定し続けていた自分のそういう良さに気づけたのはきっとそんな自分を受け止めてくれるこのまうでゅがあったから、だと思う。
自分の良さに初めて気づけた、だからこそ自分の悪いところに気づいたのもある。
極限まで自己肯定感を下げているから自分は低姿勢で謙虚だと思い込んでいたけどちがった。
自分はクズだから、ダメな人間だからと諦めることで、具体的な自分の悪いところを見つめることを放棄していると気づいた。
直すことを放棄して全部自分はクズだからしょうがないって逃げていた自分がいた。
合宿でのあの粗相について聞かされたとき、自分の弱さ、お酒に対する慢心、異性関係の根本的なだらしなさ、嫌というほど向き合った。
あの粗相があったとき、当事者も含め周りの後輩たちが自分のことを庇ってくれたこと、それは自分という人間が周りから大事にされる存在になっていたからで、だからこそ自分はここで自分の具体的な悪いところと向き合わないといけないと思った。
きっと向き合うべきことはまだまだある。
そして自分を肯定してもらえないコミュニティでも、自分を肯定できる強い人間にならないといけない。
留年はほぼ確定とはいえ、もう数年で社会人になる。
先輩から疎まれやすいのは、高校時代からの自分の特徴だから、たぶん社会人になって数年はそれで苦労するとおもう。
だから周りから否定されても自分を肯定してあげられる自分になりたい。
そんな変化のきっかけになったこの2022年、そしてまうでゅに感謝の1年でした。