言語化は応急処置
最近の自分はいろいろなことにおいて何がしたいのか考えることが多くなった。
将来何がしたい、バイト先でマネージャーとして何がしたい、サークルはバンドとしてキーボードとして何がしたい、自分は何がしたくて今それをしている、そんなことばっかり自分に問い詰める。
将来やりたいことはずっとわからない、生まれたときからずっとわからない。
法学部は二浪したけど弁護士になれたら高校同期たちとの差を埋められるかもなんて浅はかな考えで選んだけど怠惰な自分が勉強するわけもなく。
自分に何が向いてるのかとか以前にやりたいことがない。
バイトのマネージャーに関しては、江坂店にいるときはそこそこ信念を持ってやってた。
特に高校生については、自分が高校時代が充実して幸せな時間だったからこそ、バイト先の後輩たちにもその時間を大切にしてほしいと思って、店長や他のマネージャーがもっとシフト入れと圧力をかけてても、無理せず必要なお金の分だけ働いたらいいよと言いながら、高校生が多く働く自分の時間帯はその子たちが働きやすい環境をつくろうみたいな気持ちでやっていた。
けど結局、主婦から干されて移籍することになり、庄内にきてからは、情なんか湧いたらしんどくなるしたかがバイトだと思って感情を無にしてマネージャーをしている。
けど最近、自分は別に時給も高くなるわけじゃないし、他のマネージャーはもっとお店をこうしたいとかいろいろおもっているなか、自分は普通のバイトと特に変わらず何の信念もなく働いてるのに、どうしてマネージャーなんかやってるんだろうと思う。
キーボードだって、最初は浪人時代のメンヘラから軽音勧められてやりたいってなって、なんとなくピアノくらいなら弾けるだろうしとりあえずキーボードで入ってのちのちギターとかやろうって気持ちで入ったのになんとなくキーボードを続けている。
けどずっとライブに出てもコード弾くだけ、聴こえてる音を鳴らすだけで、なにが楽しくてやってるのかわからない。
どうしてキーボードやってるんだろう、みたいな気持ちになる。
まぁ主にこんな感じのことを考えている。
最近自分の中で、何かの感情を言語化して自分で解釈することで一つの感情を理解し自分に納得させる癖がある。
その人に恋愛感情があるのかどうかですら、言語化して自分を納得させて、うん好きじゃないこの人は、と自己完結させるようになった。
そもそも人に恋愛感情を抱くことにトラウマがある自分は、そういう感情を抱かないように生きてきた。
だから好きかもしれないと直感で思っても、すぐにその人が自分にとってどういう存在なのか、どうしてそういう感情を抱いたのかを言語化して、好きじゃないと結論づけ自分に納得させるようにしていた。
少し具体的に言うと、この人は自分にすごく依存してくれるけど、依存されるという行為が好きで依存されることに依存してるだけだから、別にこの人自体が好きなわけじゃない、みたいな感じで。
人を好きになれるかもしれないと思って春先くらいにバ先の人と付き合ってみたけど、その人に「好き」って言うたびに、その人に対してではなくて自分はこの人のことが好きじゃないといけないんだと自分に言い聞かせてるみたいで気持ち悪くなって無理になった。
少し話が逸れたが、何をやりたいかについてだって同じことが起こっている気がする。
たとえばキーボードだって楽しいと思える瞬間もあるわけで、その直感で楽しいと思っても、それは本当に楽しいのかっていちいち考えこんで納得できる解釈が見つからなくて、あーもういいや、やりたくないやって投げ出している。
最近ハマってる作家さんに最果タヒさんという方がいるが、その人のエッセイ集のなかにそれに近いものがあった。
要約すると、大人になるにつれて怒るという行為は幼稚だと思われ他人から軽蔑されるから、怒りや苛立ちを正論として言葉として相手にぶつけて感情ではなく正しさを押しつけるようになったけど、それだと正しさばかりを追い求めて、怒りによって生まれた心の傷口は放置されてより一層膿んでいくといったようなものだった。
これと似た感じで今の自分は、直感的にやりたいことをすればいい、楽しいと思ったことをすればいいはずのに、なぜやりたいとかどうして楽しいとか言語化することばっかりを追い求めて、感情を置き去りにしているような感覚に陥っている。
自分の感情を言語化できて解釈し納得できたその瞬間はとても気持ちいいけど、それは同時に感情を捨てることにもなって本末転倒な気がする。
そもそも何をしたいのかとか考えること自体が間違っているような気もする。
これだけ長く文章を書いても結論が見つからない感じになってしまったけど、いま思っていることを言葉にしたかったからブログっていう形にした。
あぁ、また言語化しようとしてるね、まぁ自分はそういう人間なんかもしれないね。